長崎市松山町上空約500mで、プルトニウム型『ファットマン』約21キロトンの原爆が炸裂しました。
爆発直後の火球は数百万度に達し、爆心地では地表温度が3000〜4000度に上昇。熱傷は約4kmまで及び、爆心地から半径2kmを爆風が吹き荒れました。
死者 73,884人、負傷者 74,909人。人口 約24万人の長崎市のうち約15万人が被爆したと云われます。市内建物の約36%が全焼もしくは全半壊。特に浦上天主堂で知られる浦上地区は完全壊滅し、学校、病院、工場は全て消滅しました。
また広島がウラン型だったのに対し、長崎はプルトニウム型だったため放射線量が高く、被爆の後遺症はより顕著に現れたと記録に残されています。
戦後、広島と長崎は共に『世界的平和都市』として復興され、被爆者の証言活動や積極的な平和教育、国際会議の開催などを通じ、平和の大切さを発信してこられました。
中でも長崎での平和活動は、被爆者の生活や、家族・宗教・地域共同体の再生、放射線影響の長期研究が主題だったと云われています。
これは長崎の爆心地が、浦上地区という『生活の場』そのものだったからだと云われています。そこは家族が暮らす住宅地であり、教会や学校、病院が立ち並び、工場で汗水たらして働く人々がいました。カソリック共同体の中心地でもありました。そのすべてが一瞬の閃光で焼き尽くされたのです。
爆風で広範囲に被害が広がり、街そのものが破壊された広島とは異なり、地形や天候の影響で爆風が一部遮られ、被害が局所化したことも、その後の長崎に影響を与えました。
被害を免れた人々は、家族はどうなったか、親戚は無事なのか、友人は生きているのか、母校は大丈夫か・・・。生活、地域社会、心の支えである信仰・・・すべてを一瞬で失った人々にとって、失った生活基盤の復興が大きな課題となったのです。
日本最大のカソリック共同体であった『浦上』が壊滅し、浦上天主堂など教会施設が崩壊し、多数の信徒が死亡、司祭や修道者も被災したことも、その後の長崎の平和活動に大きな影響を与えました。映画『長崎の鐘』に象徴されるように、信仰が復興の心理的礎となりました。
この経験は、長崎の平和活動に『祈り』『赦し』『人間の尊厳』という宗教的な深みを与え、そのメッセージは政治的色彩より、『人間の魂の再生』へと向かったと云われています。
爆心地近くにあった長崎医科大学(現・長崎大学)とその附属病院も大きな被害を受けました。その被害の実態は『長崎の鐘』『この子を残して』などの素材となった『永井隆博士の手記(生活記録/病床記録)』にも記されています。
永井博士のみならず、当時の長崎の医療関係者たちは、自らも原子病や原爆の後遺症に苦しみつつも、その症状を観察・記録し、後世に残されたそうです。
その後、旧長崎医科大学は被爆者医療・放射線影響研究の拠点として再建され、世界的な研究都市へと成長。原爆傷害調査委員会(ABCC)、放射線影響研究所(RERF)、長崎大学医学部被爆者医療センターが長崎に集中することになりました。
現在の長崎では、『被爆者の生活を支える医療』『長期的な放射線影響の研究』が平和活動の柱になっています。

長崎被爆81周年の日を迎え、私たちは今一度、兵器を用いるのは人であり、兵器が人を不幸にするのはなく、人が人を不幸にすることを、思い知らねばならないかもしれません。
平和を守るための手法や意見はさまざまとは思いますが、いずれにしろ『人を傷つけるのは人である』ことを心に留めたいですね。







