『美しく』・・・美輪明宏さんが終始語られていたこと・・・

美輪明宏さんが遺してくれたもの・・・『美』・・・ 音楽を語ってみた
美輪明宏さんが遺してくれたもの

 歌手の美輪明宏さんが2026年6月20日午前9時30分にお亡くなりになられていたことが、同月28日に公表されました。

美輪明宏の音楽

美輪明宏の音楽

 美輪さんは、日本語シャンソンの草分け的存在であり、シンガーソングライターの先達といわれる方でした。
 シャンソンを歌われるきっかけは、若い頃に勤めていた飲食店で、客の求めに応じて歌ったシャンソンを、宝塚スターの橘薫さんに見初められたことだったと聞いたことがあります。その後、シャンソン喫茶『銀巴里』で歌うようになり、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、遠藤周作、寺山修司など多くの文化人の知遇を得られたそうです。

 美輪さんは九州・長崎の生まれでした。家はカフェを営んでおられましたが、戦中には敵性職業と咎められ金融業に転業。10歳の時、自宅で被爆されたそうです。もともとカフェ業だった美輪さんの家には、水を求める被爆者が押し掛け、家族総出で水を配られていたところ、一人の女性が幼い自分を拝んで亡くなられた、「まさに地獄ですよ」とNHKの番組で語られています。そしてこの惨状の中で見た、『赤子を抱えた母親の死体』がその後、美輪さんの作品のテーマの一つ『無償の愛』そのものだったと云われています。

 美輪さんの歌や言葉には、いつも、このとき感じられたた『真の美しさへの憧憬』があったように私は思います。
 15歳で東京の国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)に進学されますが、帰省時に父が生活苦に喘ぐ親戚を見捨てる様を見、大喧嘩となり、義絶されたそうです。このため生活費に困り、高校を中退。先に書いたように夜の飲食業や進駐軍キャンプで稼ぐようになり、結果的にこのことが美輪さんとシャンソンや文化人との出会いに繋がりました。しかし他人のために義絶されるほど父を罵る、これはなかなかできないと、私は思います。

 今の学校教育では、こういう行為をすぐに『優しさ』だとか『いたわり』だとかの言葉で表現しがちです。ただ私は美輪さんの場合は、他人のためではなく自分のためだったような気がなぜかするのです。

美しく生きたい
 私には美輪さんがその自分の思いに率直だった気がします。彼にとって、血肉を分けた親戚を無碍に扱う父は美しくなかった、美しくない父の金で学校に行き、勉強を続ける自分も美しくなかった。『美輪明宏(当時は丸山明宏)』として生きるには、美しくあらねばならなかった、すべて彼自身のためだったように思います。そうでないと他人のために父を捨てることはできないように思うのです。

 美輪さんの代表曲『ヨイトマケの唄』
 この歌は「ヨイトマケの子供 汚い子供」と虐められた少年が、泣いて帰るところから歌が始まります。戦争か、事故か、原因はわかりませんがたぶん母子家庭なのでしょう。道すがら、彼は、姉さん冠りをして泥だらけになって、男たちに交じって大声で労働歌を歌いながら働く母の姿を見、勉強しようと学校に戻るのです。後に少年は、大学を卒業しエンジニアになるのですが、母は既にいません。少年は言うのです。

どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕を励まし なぐさめた
母ちゃんの歌こそ世界一
母ちゃんの歌こそ世界一

 この歌を自称有識者や放送局は『土方(どかた)』という言葉が歌詞にあるということで放送禁止としました。

 美輪さんにはちゃんと見えていたのです。いやたぶん一生懸命に働いている人なら皆、気づくと思います。
 泥だらけだから、貧乏だから、学がないから、美しくない・・・それは美輪さんが求めた『美』ではありませんでした。彼が求めたのは、『自分が守るべきもののために懸命に生きる美しさ』『他人と比較するのではなく、自らの求めるままに生き抜く美しさ』だったように思います。

 『ヨイトマケの唄』は、美輪さんがよく歌われるシャンソンに比べ、あまりに泥臭く、異なる印象を受ける方もおられるやもしれません。けれども本来、シャンソンはフランスの民謡、唱歌のようなものです。日本ではお洒落で都会っぽく喧伝されましたが、もっと素朴で純粋で生活感のある歌です。美輪さんはその本来の魅力にも気づいてもらおうと自ら訳詞をし歌いましたが、当時の人々には受け入れられませんでした。

 『自分が原爆で焼かれつつも、子供をしっかり抱きしめて離さなかった母の姿』・・・それが美輪さんの『美』の究極だったように私は思います。
 美輪さんのご冥福と、美輪さんが遺してくださったメッセージが引き継がれていくことを、心より望みます。
 美輪明宏さん、ありがとうございました。



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