2026年も祇園祭・後祭の宵山に宵山能が開催されます。
今年の演目は『放下僧』。
祇園祭の『放下鉾』とはどんな関連があるのか? ないのか?
日時場所党は下記の通りです。
祇園祭・宵山能 2026
【日時】令和8年7月23日(木) 17時30分開演(開場 17時)
【場所】能楽堂嘉祥閣(京都市中京区西方寺町160-1)
【内容】1.お話『祇園祭と能』/ 井上嘉介
2.能『放下僧』
《牧野小次郎》寺澤拓海 《小次郎の兄》井上裕之真 《利根信利》岡 充
【費用】前売券:3,000円 当日券:3,500円(小学生以下は無料。但し要保護者同伴)
【連絡先】TEL 075(706)8166(10:00-17:00)/ FAX 075(256)2883

宵山能 2026 スケジュール

『放下僧』は、中世の大道芸人・放下&放下僧に身をやつした兄弟の仇討物語です。
相模の住人・利根信敏に父を殺害された牧野小次郎は、既に出家していた兄を説得し、共に敵討の旅に出ます。信敏に仇討のそれと気取られるよう、当時の大道芸人、放下僧・放下の出立に身をやつしていた牧野兄弟は、道中遂に瀬戸三島(現・瀬戸神社)に参詣に赴く利根信敏に遭遇。禅問答や羯鼓の舞など、放下としての芸を尽くして、利根を油断させ、隙を見逃さず、本懐を遂げるのですが、この一部始終を描いた物語を、活気あふれる禅問答や華やかで楽し気な『鞨鼓の舞』・・・からの復讐劇という、華やかさと緊張感が絡み合った演目に仕立てあげています。
中世の人々は、『芸は神仏に通じるもの』『芸は災いを遠ざけるもの』と信じていたそうで、これは今も変わらぬ真理かもしれません。音楽や演劇、舞いなどに触れることで、不安が和らいだりする、そんな『芸能が持つ祓いと救済の力』が物語の裏側に秘められている気がする作品です。
『放下』という言葉はもともと仏教用語の『放下(ほうげ)』が起源と云われます。
『執着を捨てる』という意味で仏教の世界ではとても大事な教えになります。
仏教では『執着』こそがすべての苦しみの根源だと云われます。『生老病死』の苦しみと云いますが、それはまさにより良い生活への執着、若さへの執着、健康への執着、命への執着です。それを捨て=放下して、今を受入れて、今を力の限り生き抜く、そんな意味なのかな?と思ったりします。
中国の唐の時代の名僧・趙州和尚と弟子の厳陽のこんな逸話が残っています。
或る時、厳陽が、「自分は厳しい修行の末、欲望も執着のすべて捨て去り、市中にも何一つ持っていない。究極の境地に達した今、私はどうすればいいのでしょうか?」と尋ねられたそうです。
すると和尚は「放下着(そんあもの、さっさと捨ててしまいなさい)」と仰られました。
「私は何も持っていない(だから素晴らしい境地にいる)というプライドこそが傲慢ではないのか? それを早く捨ててしまいなさい」という意味だったそうです。
こういうもともとの『放下』という言葉の「捨て去る→ほうりなげる」というニュアンスが転じて、軽業や曲芸、玉乗りや皿回しなどジャグリング系の『放り投げる』に繋がり、大道芸人などの芸能者を『放下(ほうか)』と呼ぶようになったそうです。『放下僧』については、そのような大道芸人『放下』の中に僧形のものが一定数以上いたからのようです。僧形の『放下』が多かった理由としては、大道芸人が権威をつけるために僧形を借りたという説もあれば、布教の人集めに大道芸も行ったという説もあるようです。
祇園祭の『山』で時折ある、能の一場面を模した、という関係ではないようです。ただ『放下鉾(ほうかぼこ)』の『放下』は、まさに能『放下僧』に登場する芸能者、『放下』や『放下僧』と考えられます。
それを証明する要素としては次のようなことが挙げられます。
1.御神体が『放下僧』像である
2.祇園祭は祇園囃子など芸能的色彩の強い祭りである
3.放下鉾の名称は御神体の放下僧像に由来すると複数の祭礼記録に明記がある(らしい)。
4.稚児人形の三光丸は胸に鞨鼓、両手に緋の手甲をつけ、バチを持っている。
◇【能楽/謡曲】観世流謡曲集『放下僧』観世元昭(CD)
◇【能楽/謡曲】観世流謡曲百番集『放下僧』(カセットテープ)
◇【能楽/謡曲本】 観世流特製一番本・平物二級『放下僧』(書籍)
◇【能/教材】観世流仕舞『放下僧(小歌)』観世清和(DVD)
◇【能の教材】観世流仕舞稽古形付『放下僧』(書籍)




