近頃、定期的に伊集院静の物語を聴きたくなるなるようになった。
若い頃はもてない男の僻みなのだろうが、夏目雅子、篠ひろ子、と俗にいう『いい女』を嫁にした男が気に入らず、彼の小説など手に取らなかった。テレビや週刊誌などで知る彼の言動やスタイルもカッコつけに見えて苦手だったし、もっと云えば『伊集院静』という気取ったペンネームに癪に障った。
でも今、私は伊集院静の小説が大好きなようだ。そこには『痛み』があり、『優しさ』があり、どうしようもない現実を受け入れ、生きる覚悟がある・・・。
私が読んでる限りでは、そこにはスーパーマンがいるわけではない。後悔したり、迷ったり、悩んだり・・・突っ張ったり、強がったりすることも含め、等身大の人間が生きているだけだ。でも、英雄やHEROではない彼ら一人一人に、歩んでいる人生があり、ドラマがある。伊集院静の物語はそんな名もなき人々の日々の一欠けを綴っている。
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この物語の主人公は8歳の少年・純也だ。純也は、母と双子の妹・淑子との3人家族。笑顔で過ごしてきたが、少し前から淑子が難病にかかってしまい、ずっと入院している。
或る日、純也が野球の練習をしていると、見知らぬ少女が現れ、純也にカーブの投げ方を教えてくれる。生意気だけど、野球が上手で都会っぽい少女がなんとなく気になる純也。
一方、淑子の体調がは思わしくないようで、母の思い詰まったような様子になんとなく気がついた純也だが、それに深く触れてはいけない気がしていた。純也には少女のほかにも気になることがあった。『どんまい』という言葉だ。親戚の徳三じいさんと時折見に行く高校の野球チームで選手たちがしきりに「どんまい」と言い合っている。徳三じいさんに意味を尋ねたいが、じいさんはどこかに行ったきり一向に帰ってこない。そんな折、純也は淑子の看病に病院を訪れ、そこであの見知らぬ少女と再会する。淑子は少女の帽子を見て、自分もあんな帽子をかぶりたいと願うようになる。数日後、その少女、カオルと再会した純也は、訳を話し、帽子を貸してもらえないかと頼むが、
カオルはこの帽子だけはダメだと断る。その帽子はカオルの亡くなった父の形見だった。
家に帰った純也に、世話になっている魚屋のおばさんが、淑子の体調が急変したと連絡が入ったこと、純也たちの母と連絡がつかないことを告げる。母がどこに行ったのかは純也にも到底わからず、純也は後のことをおばさんに頼むと、淑子のもとに駆けつけるのだが・・・。
純也はけっして100点満点ではない。淑子のことで看病に行くのは少し面倒くさいし、野球をしていたい気持ちだってある。でも弱々しく、元気になれるか不安がる妹を見て、いじらしいほどお兄ちゃんになるのだ。
妹がいる人なら、みんなわかると思う。妹が元気なときは、邪魔に思ったり、めんどくさく感じたりすることもあるが、妹が怪我をしたり、泣いていたら、自分の命を懸けても守りたいと思う・・・それが子供であってもだ。伊集院静はそのきもちをちゃんとわかってくれている。文字に書かなくても、物語にはその気持ちが描かれている。
音楽でもそうだが、文字で記さなくても、音符がなくても、思いがないわけではない。
『空白』が『無』とは限らない。
私たちはいつしか、そういう言葉にはしない声や、音にはしない音楽を、気づかないふりをするようになってしまったのではないか。私たちは、確かめられない、証明できない、を理由に、見落としたふりをしていたのではないか。
この年になると思う。見えないふり、聴こえないふり、知らないふり、気づかないふり・・・どんなにうまく演じても、見えている自分、聴こえている自分、知っている自分、気づいている自分に嘘はつけない。
伊集院静はむかつくけど、そのことに心底気づいている人だったに違いない。
悔しいが『いい女』に惚れられる男だったのだと思う。



