もう、お聴きになっただろうか?
緊張感漂うストリングスとピアノの音色を入り口に、何処で息をしているのか疑問に思うほどの疾走感で駆け抜ける。
捨てメロの語るが如きヴォーカルラインは舞台に上がるまでの不安と期待を示す。
そして転調からサビ。
舞台に上がった高揚感。煌めくようなスポットライトの中、ただがむしゃらに踊り狂う。
その先になるか、舞台を降りれば何があるのか・・・。
その情景は、この曲が主題歌を務める『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』の世界観であり、同時に私たちが生きる『今』でさえあるのかもしれない。

三谷幸喜さんの半自伝的要素を加え脚本化したドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』。
時代は1985年、バブルを迎える前の日本・渋谷。
個性的で独善的な小劇場の演出家・久部(菅田将暉)は自ら立ち上げた劇団を追放され、不思議な縁でストリップ劇場の照明として雇われることに。
久部は、密かにこのストリップ劇場を劇団に衣替えし、昔の仲間たちを見返してやろうと画策。
ストリップ・ダンサーを女優に、幕間のB級芸人を俳優に仕立てようとするのだが・・・。
と2話まで見た感じではこんな話のようだ。
正直、久部の目論見に経営的視点はほとんどない。
自分が求める演劇、自分が生み出したい世界観を如何に作るしか興味がない。
劇場支配人やダンサーをのせるために、儲かるだ、今の流行りだ、などと言ってはいるがそれも方便でしかない。
とはいえ、いつの時代も変革期には、何千何百の『久部』が出現する。
一緒にしては失礼だろうが、今年ノーベル賞を受賞された二人の博士もまたある種の『久部』なのだと思う。
お二人はノーベル賞をめざし、人類の繁栄をめざし、研究を続けてこられたわけではまずないだろう。
疑問への探求、徐々に切り開かれる真実、そして知れば知るほど新たに生まれる疑問。
この無限ループの中で解明された真実の一部が、世界中の人々に影響を与え、人類の幸福に繋がると認められた。
つまりノーベル賞も万雷の拍手も、彼らにとっては副産物にすぎないのだと思う。
『科学』という舞台の上で、ふたりの偉大な研究者は見事なダンスを踊り続けてこられた、
そこにこそ彼らの歓びはあるような気がする。
このドラマには、シェ-クスピアの名言がよく登場する。
特に、YOASOBIの『劇上』に繋がるのは、たぶん、この台詞だ。
『お気に召すまま -As You Like It-』第2幕第7場の一節。
《原文》
All the world’s a stage,
And all the men and women merely players,
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts.
《訳例》
この世はすべて舞台、男も女もみな役者にすぎぬ。
それぞれに登場と退場があり、
一人の人間もその生涯に幾つもの役を演じる。
『劇上』のラストは、こんな一節で締められていく。
今この劇上でこの身ひとつ
明日も見えない夜に舞え
今は誰も見向きもしない
そんな役回りでも知ったことか
踊れ dance!
野晒しの舞台で
がむしゃらに生きる僕らは美しい
いつかこの幕が降りるまで
この命を演じ続けるのさ
この命を見せつけてやるのさ
舞台に立っている限り、自分自身のダンスを踊ろう。
それは自分の役を演じ切る俳優たちのようでもあり、
同時に社会の中で自らの役割を果たし切ろうとする人々も同じなのかもしれない。
正直に云えば、齢を重ねても体たらくを続ける私自身を思うと、けっこうグサリとくる内容ではある。
ただ同時に、今の自分も退場しかかってはいるが、舞台の端っこには残っているのかなぁ、なんて気持ちにもなる。
このあたり、若い方の感じ方とはだいぶ違うだろう。
まぁ、まだ舞台の上だ。老骨に鞭うって、もう少し自分なりのdanceを踊るとしようか・・・。






