近頃、改めて山田洋次監督や小津安二郎監督の映画を見ることが増えた。
たぶん年齢と体調の変化が起因していると思う。
山田洋次晩年のヒット映画『時代劇三部作』–たそがれ清兵衛、隠し剣鬼の爪、武士の一分-について私なりに簡単に紹介したい。
山田洋次監督は1931年生まれ。
幼少期は満州で暮らしており、敗戦時の引揚を経験された。
多くの日本人はこの時の経験をあまり語られない。
少し調べればわかるが、この時の悲惨さは想像を絶し、およそ人間の所業とは思えない地獄絵が繰り広げられたと云う。
ソ連兵による略奪、暴行、レイプは云うに及ばず、ついこの間まで同国人だった人々からはそれ以上の仕打ちを受けたそうだ。敗戦前には『日本のお母さん』と呼んでいた女性を複数で凌辱し、殺害した事件もあった。
引揚船乗船後も心の傷に耐え切れず投身地厚をした人が後を絶たなかった。なんとか生き抜いた人々もその凄惨さに口を閉ざしたと云われている。
『戦争は人を狂わす』
『戦争に負けるから悪いんじゃない。戦争になること自体が悪いんだ』
当時の山田洋次少年はそんな思いを抱いたのではないだろうか?
山田監督の代表作と云えば『男はつらいよ』シリーズ(DVD or ブルーレイ)、単品なら『幸せの黄色いハンカチ』が有名だ。
庶民の日々の生活を、笑いと涙を交えつつ、柔らかな視点で描き出す、
まさにザ・ヒューマニズム。
言葉を多く紡ぐのではなく風情で、趣で感情の機微を伝える映画だ。
晩年、彼は三題の時代劇を撮った。
『たそがれ清兵衛』
『隠し剣鬼の爪』
『武士の一分』
・・・どれも世界的人気を博し、数々の賞を受賞している。
主人公はすべて下級武士だ。
どの人物も剣技に優れるが、身分や性格、当世の事情もあり、薄禄に甘んじ、日々慎ましい生活を送っている。
けれどそれでいい、と彼らは思っている。
決して裕福でもないし、人からはいろいろ言われることもあるが、そこには笑顔があり、思いやりがあり、安らぎがある。
時代は違えど、今の私たちと同じだ。
ところがその穏やかな日々を根底から揺るがす事件が起こり、彼らは決断を強いられることになる。
或る者は妻を病で失い、或る者は友を斬らねばならなくなり、或る者は光を失う。
そこで彼らは踏み止まる。
人生と正対し、向き合うことで、本当に大切なものに行きつく。

山田監督は、細やかな時代考証や彼らの生活の有り様を丁寧に、丹念に描き、その人物像をくっきりと描き出す。
想像の人物が、私たちの隣人へと変わったころに、その隣人は大きな危難に巻き込まれる。
虎舞竜の名曲『ロード』の一節
『なんでない夜のことが幸せだったと思う』。
そういう事件だ。
そのクライマックス、立ち合いのシーンは決して多くの時代劇映画にある、派手で豪快なアクションや、魅せる剣戟ではない。
息詰まる、剣と剣が重なる以上に、互いの情念がぶつかり合う、そんなシーンだ。
この『山田洋次・時代劇三部作』が世界に受け入れられたのは、やはり世情によるものが多いだろう。
派手で美化される戦いではない。
『人が人を殺し合う、そんな自体を招いたこと、そのものが不幸なのだ』
暴力は肉体的なものだけではない。
人は口で相手を死に追いやることもできるし、文章で殺すこともできる。
だからこそ私たちは、相手を殺さぬように、死に追いやらないように、智慧を絞り、相手への敬意を忘れず、思いやりをもって人と向き合おう、
道徳の時間みたいだが、山田洋次はそう映画で語ってくれているのかもしれない。